父の手記からたどる、戦後50年パプアニューギニア旅行

4年前の終戦記念日に25年を経て記録する、父と娘の戦後50年パプアニューギニア旅行というブログを公開しました。

このブログは超私的な内容にも関わらず、ブログを読んだ見ず知らずの方から私宛に連絡をいただいています。今日までに3名も。

で、思いました。超私的な内容であろうとも、いや超私的な内容だからこそ記録する必要があるんじゃないかと。

という訳で、4年前のブログの元になった父の手記(1995年、父が72歳で執筆したもの)をココに残します。長文です。ご一読いただけるのであれば時間に余裕のある時にどうぞ。

戦後五十年 パプア二ユーギニアに旅して

古川久三男 (元:船舶工兵第九連隊 第二中隊長)

出発までのあれこれ

今年のはじめ、東部ニューギニア戦友会会長の堀江正夫氏(元:第十八軍参謀・参議院議員、現:日本郷友連盟会長・日本パプアニューギニア友好協会会長)からニューギニア行きのお誘いをうけていたが、実のところ真面目に検討するどころか半ば忘れかけていた。

一方今年は終戦から五十年ということで、さきの大戦や戦前の日本の在り方を問う企画番組や記事がメディアに溢れ、これでもか式の自虐的内容ばかりが目立ちいささかうんざりしていたところ、三月下旬になって珍しいことに朝日新聞が日本パプアニューギニア友好協会(以下、日・パ協会と略記)が現地で慰霊祭を行うことになったという記事をのせた。

これをみて私は大げさに言えば「五十年間自分の胸にしまっておいたものが一気に噴き出した」ような衝動に駆られ、早速「日・パ協会」に電話して資料をとりよせ、日程、経路、費用などを検討した結果、この慰霊行への参加を決定した。家内は私の唐突な決定に対し言いたいことが多々あったようだが、斯ういうことは今にはじまったことではないのであきらめ顔だった。

四月にはいって東京の娘が突然同行するといって締切日ぎりぎりになって参加を申し込んだ。これをきいた釧路の娘も同行することになり、期せずして親子三人の大旅行(?)が実現することになった。

娘達に口では「無理するなよ」と言ったものの、実のところ四月はじめから左下半身に鈍痛と「しびれ」がきて健康上一抹の不安を感じていたこともあって、娘二人のエスコートは心強い限りであった。こうして私は昭和十八年の末から終戦・抑留・引き揚げまで二年余りをすごした懐かしいパプアニューギニア(以下、PNGと略記)を五十年ぶりに訪れることになった。

思えば彼地は昭和十七年半ばから米・豪軍と三年余の長きにわたって死斗が繰り返され、わが方の陸海合わせて十三万余の戦没者の大部分が未だに風雨にさらされて眠っている。(戦後政府が行った十一回に及ぶ遺骨収集による収骨数は僅かに一万七千五百二十一柱ときいている)

出発日の五月十八日が近づくにつれ心は早くも彼地にとび、当時の記憶を呼び戻そうと努力するが、まさに往時茫々五十年という歳月の重さだけが感ぜられ、焦らだたしくなる日が続いた。一方旅行会社からはマラリアの予防薬が送られてきて、旅行間の健康管理など現実の問題への対応もあれこれと面倒なことであった。マラリアの問題だが、旅行会社の添乗員(T/C)本間一仁氏はPNG関係の旅行五十回以上のベテランだが、その彼が「まず心配はない」とのことだった。

しかし出発前東京での説明会(私は欠席)で参加者から心配(当時を知るものとしては当然)の声が多かったので、本間氏が「クロロキン」という米軍がベトナム戦争のとき使用したという特効薬を苦労して入手し、参加者全員に配ってくれたとのことであった。私としても心配がなかったわけではないが、五十年前とは違うんだろうということと、クロロキンが劇薬ともきいたので服用せずに参加することにした。その替り蚊とり線香と防虫クリーム(スプレーは機内持ち込み禁止)は十分に用意した。

話は元に戻るが、そもそも今回の旅行は日・パ協会が今年PNG独立二十周年に際し現地要人と親善パーティーを催すことと、同協会創立二十五周年の記念総会、終戦五十周年慰霊巡拝の旅を併せた多目的なものであった。参加者は協会の会員が中心で一部戦友会などからも募り、堀江氏を団長に総勢四十九名(内二名はT/C)。

日程は五月十八日から五月二十七日までの十日間、経路は東京(成田)→ケアンズ(オーストラリア)→ポートモレスビー→マダン→ウェワク→ポートモレスビー→ケアンズ→成田(下図参照)を基本に、一部希望者は「マダン」から「マウントハーゲン」又は「ラエ」方面を回って帰路「ポートモレスビー」で主力に合流するという計画であった。

私は勿論主力(基本)経路の方に参加した。参加者は前述のとおり「日・パ協会」会員が主であるが、協会は戦友及び遺族が中心になって構成されている団体で、当然のことながら戦友及びその遺族(家族)であった。このうち女性は東京の中畔さん(八十二歳)を筆頭に十六名(一名はT/C)と丁度三分の一であった。私は日・パ協会に入っていないので大多数の人が初対面で、旧知の人といえば堀江団長のほか岡本隆久氏(元第五十一師団参謀)と自衛隊当時に知った青木修兵衛氏ぐらいのものであったが、私が船舶工兵と知ってからは同じ工兵同士というわけで工兵第五十一連隊の斉藤茂氏(幹候八期)に旅行の終始を通じ親しくしていただき、何かと心強い限りであった。

成田からケアンズ(オーストラリア)へ

五月十八日十八時、成田空港第二旅客ターミナル三階の指定カウンター前に全員集合完了。「さすがに一般のツアー客とは違う」とはT/Cの本間氏の弁。はじめにも紹介したが彼はPNG往復歴五十回以上、現地の事情に精通したベテラン添乗員。勿論戦争を知らない世代だがPNGの戦場となった各地域や戦史に詳しく、まるで戦争体験者の様な話し振りだ。今どき斯んな青年もいるんだと感心させられた。あとで本人からきいた話だが「セピック地方」の「ビエン」(わが連隊の第一中隊が駐留したことのある部落)の酋長から娘をやるから残らないかとせがまれ、断るのに苦労したということだった。

出発ロビーで結団式。堀江団長の挨拶は熱のこもったものだった。臼く「今なお水漬き草むして現地に眠る亡き戦友のこと」そして「美しい国土を戦火によって荒らされ多大の迷惑をうけたにも拘らず、吾々日本軍に自分達の食糧を分けて呉れたばかりか戦後も亡き戦友の墓を守ってくれた現住民の人達への感謝とお詫びの念を忘れまい」と。

さて、われわれ一行の乗ったカンタス航空六〇便、ボーイング七四七は定刻二十時三十分成田空港を離陸して暗黒の空を一路ケアンズに向った。飛行時間七時間十分。ケアンズ到着は十九日四時四十分(日本時間三時四十分)。ここでPNG航空に乗り継いでPNGの首都ポートモレスビーに行くのだが、待ち時間が五時間半もあったのには閉口した。乗り継ぎ客とあってオーストラリアの入国手続きは簡単だったが、ロビーから外には一歩も出られず、椅子にもたれて仮眠をとったりスナックで簡単な朝食をとったりして時間をつぶした。一番困ったのは喫煙場所のないことで、これにはわれわれ愛煙家は機内から続いて苦労のし通しだった。日本と違って異常とも思える程静かでゆったりとした時空。いや異常なのは日本なんだと思ったりした。

ポートモレスビー(五月十九日)での六時間

十時十五分発PNG航空九十九便でポートモレスビーに向う。グレートバリアーリーフに砕ける白波を眼下にみながら珊瑚海を北上する。ちぎれ雲の下にみえる珊瑚海はあくまでも碧く静かで、昭和十七年五月の珊瑚海々戦の歴史を海底深く秘めているかの様であった。

昭和十七年五月、堀井少将指揮するわが南海支隊が「ブナ」方面に上陸してオーエンスタンレー山脈を踏破。途々約六コ大隊の濠州軍を撃破しながら「モレスビー」をめざし、その街の灯を望見できる「イオリバイワ峠」まで進出しながら悲しいかな補給続かず、八月末雄図虚しく血涙をのんで出発点に近い「クムシ河」の線まで撤退したわけであるが、そのモレスビーの土をこれから踏みしめようとしている。私は胸の高鳴るのを感ぜずにはいられなかった。

時間的に昼食は機内食。スチュワーデスのパプア女性は仲々垢ぬけている。女性添乗員の大澤さんによれば久し振りにきてみて何よりも驚いたことは女性が綺麗になったことだとのこと。まあ女性らしい観察だが、因みに彼女は両親と共にポートモレスビーに住んでいたことがあり、英語も「ピジン語」も達者なもの怖じしない活発な女性で、現在神戸芸術工科大学内国際交流神戸事務所の所長をしているとのこと。今回は休暇をとって応援T/Cとしてわれわれ一行に加わった由であった。

離陸後約一時間、PNGの陸地がはっきりとみえてきた。紺碧の海、緑の島々、椰子林と点在する白い建物のコントラスト。首都とはいえポートモレスビーの街は都会の感じはしない。乗機(フォッカーF―二八)は定刻の十一時四十五分(ケアンズからの所要時間は一時間二十五分)モレスビー空港に着陸した。

そのむかし日本軍がこの地の攻略を企図した目的は、ニューカレドニア、フィジー、サモア諸島と共に第一段作戦で占領した地域の外郭要点として航空基地を確保して防衛態勢を強化するとともに、場合によっては濠州に対する攻勢の拠点として利用しようとするものであったときく。たしかにいまこの地にきてみて、港湾、飛行場を抱えた良い基地としての条件を備えていると思われる。だが、どの様にして日本から五千キロも離れたこの地へ補給その他の後方支援をやろうとしたのか。まさに狂気の沙汰である。当時緒戦の大戦果に軍部のみならず国民の大部分が狂喜して勝利の美酒に酔い、心驕って勝って兜の緒をしめるべきときに為すべき途を誤ったことが、これからあとの「ニューギニア作戦」の悲惨な結果につながったと思うと何ともやり切れない。

PNGは入国時の食品・植物などの持込制限がきびしく申告洩れがあると罰金を科せられるときいて、私は酒のツマミ、娘達は梅干し等丹念にチェックして申告した。係官は思ったより優しく、一応スーツケースの中味をチェックしたもののあっさりとOKしてくれた。マダン行きの飛行機の出発まで約六時間、この間両替とモレスビー市内の観光をすることになった。

PNGではこの国の通貨しか通用しないというので先ず空港内の銀行で両替を試みたが、余りの混雑にびっくり。諦めて市内の銀行を利用することにして空港をあとにする。PNGの通貨は「キナ」と「トエア」一キナは百トエアである。滞在間どれ位の金が必要か見当がつかない。

T/Cによれば、ホテルでビールを飲む程度でそれ以外にはほとんど必要ないだろうとのことだった。しかし、私達親子は「ムッシュ島」や「カウプ方面」の別行動を予定しているので、船や車のチャーターに如何程必要か、T/Cの本間氏に相談したが「行ってみないと判らない」「足りなくなったらその時に相談しましょう」ということで結局山勘で二百米ドルを交換することにした。

当日は金曜日で週給支払日とあって市内の銀行もひどい混雑。おまけに窓口では電卓と手書き伝票での処理。約一時間もかかって受取った金は二百四十六キナと十五トエア。当日の相場一米ドル八十四円から計算すると一キナが約七十円だと同行の斉藤さんが教えてくれた。銀行の前には犬を連れた警官が警戒に当っていた。最近のPNG特にここモレスビーは物騒で「ラスカル」(悪党、又はならず者の意)が急増しているとのこと。モレスビーに次いでマウントハーゲンの治安が悪く、最近ではマダンも悪くなったらしい。何処でも同じで狙われるのはやはり日本人だということであった。

この日の市内観光コースは、国立博物館→国会議事堂→モレスビー港(水上部落ヨットハーバー)→パガヒル展望台→コキマーケットであった。驚いたことに観光ガイドは小学生の兄と妹。子供達の方が正確な英語を話すことと、観光ガイドという憧れの職業に対する親の期待もあるようだ。

タウン地区を通って丘陵斜面に開けた官庁街の丘の上に国立博物館と国会議事堂がある。どちらも建物の正面は屋根が三角に突き上がった「ハウス・タンバラン」(精霊の家)の様式で民族色豊か。博物館にはセピック地方の原始美術(彫りもの)や民具のほか鳥や動物も飼われていた。木彫りには男女の性器を彫ったものが多いので娘達も息をのむ。戦中われわれのジャングル生活で貴重な蛋白源であった「火喰い鳥」「クスクス」「カンムリバト」なども飼われていた。

国会は休会中だったので内部も見学できた。正面玄関を入ると中国全人代寄贈の巨大な壷が目をひく。議員数は百九名とのことで、わが国では地方議会程度の規模だが、ひと通りの近代設備を備えていた。

パガヒルからはモレスビー港を一望できる。ここはラスカルの出没が多く特に注意してくれとのことであったが景色は最高。コバルトブルーの海の美しさにしばしみとれる。湾口に赤さびた貨物船の残がいが往時の戦いの名残りを止めていた。

コキマーケットはモレスビー最大の生鮮食料品の市場で、野菜・果物は勿論、亀・鰐・豚・カンガルーの肉なども売っていた。ここもラスカルが多い地区というので十人ほどが一団となって緊張気味の見学だった。子供達が寄ってきてしきりにタバコをくれとせがむ。居心地悪く早々にきりあげて空港に向った。

マダン(五月十九日夜~五月二十二朝)

五月十九日十八時四十五分、モレスビー発PNG航空一二八便でマダンに向う。昨夜成田出発以降ほとんど睡眠をとっていない。機上の人となってジュースとビスケットのサービスをうけたら何時の間にか眠って失った。着陸のショックで眼をさまし、時計をみたらマダン到着には未だ早い。時刻表を見誤ったかと思ったが、ラエ空港に一時着陸とのことで納得。何人かの乗り降りがあった様だ。二十時三十分予定どおりマダン空港に到着した。

ここで簡単に私とマダンとの関わりをふり返ってみたい。

昭和十八年の十一月初め連隊主力への復帰を命ぜられたわが第二中隊(第二小隊欠)は、十一月下旬三艇隊に分かれて逐次ニューブリテン島の「タラセア」を出航。ダンビール海峡、並びにヴィティアス海峡の横断に奇蹟的に成功して「シオ」に到着。「ガリ」「フンガイヤ」等を経て十二月の初旬マダンに集結完了した。(この間の詳細は会報八号の大山富士夫氏の回想記に述べられているので割愛する)

これよりさきニューギニア方面に対する敵の反攻作戦は益々熾烈をきわめ、九月二十二日にはフィンシュハーヘンの北「アント岬」に濠軍第九師団が上陸。この結果「ラエ」「サラモア」方面で戦闘中だった第五十一師団は退路を断たれ、あの悲惨極まりない「サラワケット越え」を余儀なくされた。

一方「フィンシュ」方面ではマダンから急派されたわが第二十師団と敵濠軍との間に日夜を分たぬ死闘が続いていた。この様な悪い状況の中、幸運にも死線をこえてマダンに到着し、九ヶ月ぶりに連隊に復帰できたときの感激は終生忘れることがない。そのマダンの土を五十年ぶりに踏んだのである。

とはいえ、当時敵の圧倒的航空優勢のもと夜間の隠密行動を主としたわれわれは、昼間は宿営地から外に出ることもなく、懐かしのマダンとはいっても当時と現在を比較するものは少ない。

マダン空港から二台のバスに分乗して夜暗の道を宿所のマダンリゾートホテルに向う。空港は日本軍の飛行場のあったところと思われたので、途中で連隊の宿営地(舟艇秘匿地)であった通称「中川クリーク」の橋を渡る筈だと思いヘッドライトの前方にそれらしいものを求めたが、いつの間にかホテルに着いて失った。

時刻は二十一時をすぎている。まず夕食のため食堂に案内される。ホテルはリゾートホテルの名に相応しく熱帯情緒豊かな構えで、屋根はニッパ榔子のモロタ葺き。マダン湾の入口に近いところにあって風光明媚。サービスも行きとどいていた。この日の夕食は我々一行に対し歓迎の意をこめてかホテル所属のバンドが民族音楽を奏で、山海の珍味が並べられ、件のバンドが各テーブルを回って一曲サービスしてくれた。

食後T/Cから部屋割の発表があり、私と娘達はひとつ部屋というので果してどんな部屋かと一抹の不安を抱きながら行ってみると、まあまあの感じで彼女達も安心したようだった。問題だったのはシャワーで各部屋同時に使うと水圧不足で全くだめ。これには参った。二十四時をすぎてからやっと三人がシャワーを使い、持参のウイスキーで無事到着を祝って乾杯してからベッドに横になったが、睡眠不足にもかかわらず緊張のせいか余り疲れを覚えなかった。

明けて五月二十日、この日は三班に分れての行動になった。堀江団長ほか数名はJANT株式会社(本州製紙の現地法人)に、もうひとつのグループは陸路「ボギア」「ハンサ」方面巡拝、私達はマダン湾クルージングということになった。前述したようなわけで昼問マダンの景色をじっくりと観るのは私にとってもこれが初めてである。この日は朝から快晴で紺碧の海に点在する島々の景色は日本の「松島」にもない美しさであった。われわれは二隻のボートに分乗して湾内を周航したが、やはり観光気分にはひたり切れず往時の記憶を呼び戻していた。

湾内には海トラ級と思われる船の残骸も散見される。私は当時舟艇秘匿地だった中川クリークの入口と思われるところをどうにか確認できたが、クリークの中まで進入するわけにゆかず残念だった。周航の終りはホテルの向いにある「クランケット島」に上陸。ここにはホテルの付属施設があり、ホテルの宿泊客が釣りや水泳ぎや午睡のため訪れるらしい。私はガイドの青年に「この島は誰の所有か」とピジン語できいてみたらホテルのボスだという。PNGにきてはじめて話したピジン語が通用してちょっといい気分だった。島内を約一時間散策して正午前ホテルに帰った。

この夜は今回の最大イベントである堀江団長主催の「日本・パプアニューギニア友好親善の夕」がこのホテルで催されることになっていたが、私は眼の前にあるプールで泳ぎたくなり、こんな機会もあろうかと用意してきた水着をとり出して、それこそ二十年ぶりの水泳をたのしんだ。あとの行事に支障があってもと思い、そこそこのところで切りあげたがいい思い出がひとつできた。

十七時三十分から予定どおりパーティ。PNGは英連邦下の国なので女王から親任された総督がいる。その総督以下最高の賓客を迎えるとあって堀江団長と日・パ協会専務理事の梶塚氏はナーヴァス気味だった。

因みに主な来賓を列挙すると左記のような顔ぶれで、私もまさかこんな人々と同席するなど予想もしていなかった。

<PNG側>

国父 サー・マイケル・ソマレ卿

総督 サー・ウィワ・コロウィ卿

国会議長 ラビナー・ナマリュー氏

厚生大臣 ピーター・ベーター氏

林業大臣 ビタン・ケオク氏

マダン州知事 マシュー・グバグ氏

マダン地区国会議員 スタンレー・ビル氏

PNG国営航空取締役 ジェフ・マクログラン氏

メラネシヤ・ツーリスト総支配人 キャメロン・カーセルダイン氏

<日本側>

PNG駐割特命全権大使 林安秀氏夫妻

PNG日本大使館一等書記官 木村善行氏

海外事業協力国ポートモレスビー事務所長代理 沓掛氏以下マンダン地区青年協力隊員五名

JANT株式会社取締役支配人 岩橋秀一氏

堀江会長のあいさつにはじまり、総督、国会議長のあいさつ等、長時間に及んだセレモニーの最後に国父ソマレ卿が自ら乾杯の音頭を申し出て、今や日本では忘れられている「天皇陛下万歳」そして「クイーン万歳」と発声。一同感激、会場は一気にもり上った。

私は着席位置の関係でJANTの岩橋氏や青年海外協力隊の人々との会話が多かった。協力隊員は一名は奥地の部落で農業技術の指導に携わっているとのことだったが「最大の問題は?」という私の質問に対し「何といっても教育です」との答えがかえってきた。そして彼等の率直な意見として、この国の将来展望、近代国家としての自立については多分に悲観的であった。理由は色々あるが要は指導者をはじめこの国の人々の「自立心の無さ」にあるようだ。このことについてはウエワクでもきかされた。

さて、この日の食事メニューはPNG色豊かな豪華版。会費一万円にしては立派すぎた。多分厚生大臣でもあるホテルのオーナーの特別サービスの恩恵があった様だ。鰐(PUKPUK)のステーキなどとてもほかでは味わえないものもあった。宴たけなわとなるや堀江会長が私のところにきて「ソマレ卿が君と話をしたいといっている」というので席をたって彼のところに行き、隣席の総督と二人に英語で挨拶。あとはピジン語を混えた文字通りのブロークン英語を駆使(?)して歓談できたのは大きな収穫であった。

ソマレ卿はセピック州カウプの出身。五十年前わが連隊の宣撫班長をしていた故柴田幸雄氏がカウプの退避部落に寺子屋式の学校を開設して十歳前後の子供達を教育したことがあったが、そのときの教え子の一人に「ソマレ少年」がいたわけで。それから四十年経ってソマレ氏が初代PNG首相として訪日された機会に柴田氏と劇的な再会を果たし、後日ソマレ氏が謝恩の意をこめて柴田夫妻をPNGに招待された美談は記憶に新しいところである。

翌五月二十一日は予定では「ヤボブの丘」(マダン市街から南へ車で約三十分のところ)で慰霊祭執行のあと、戦中わが第十八軍司令部のあった「アムロンの高地」(日本名:猛頭山)とアレクシス方面の戦跡を訪ねることになっていたが、昨夜半からの豪雨で道路状況が悪化し多分猛頭山には登れないだろう、とにかく慰霊祭だけはということで小雨の中九時ホテル出発、ヤボブの丘に向った。ヤボブは往時第一二三野戦病院のあったところ。多くの将兵が「シオ」あるいは「ガリ」方面から疲懲の極に達しながら後退してきてこの地で亡くなり、現在慰霊碑の建てられている場所は当時荼毘に付したあと遺灰を埋めた墓地でもあるときいて深い感銘をうけた。

堀江団長の声涙くだる祭文奏上、献花に続いて林大使夫妻も献花され、このあと全員が焼香、合掌して亡き戦友の冥福を祈った。終って私は「きてよかった」という感動を覚えると共に不思議な解放感に似たものも感じていた。ヤボブを後にして「アレクシスハーヘン」に向う。沿道には椰子林とコーヒー畑が広がる。コーヒーはPNGの重要な外貨収入源で品質もよく、コーヒー好きの娘は帰りのみやげはこれに決めたようだった。

アムロンの高地の進入路で一時車をとめて説明をきく。雨はあがったが未だ車の進入は無理ということだ。高地を望見すると大きなパラボラアンテナが立っていた。多分衛星放送受信用のものだろう。申しおくれたがPNGでもテレビは見ることができる。ホテルの私達の部屋にもテレビは備えつけられていた。

アレクシスの港について堀江団長と梶塚専務が当時(十九年一月から二月頃)ガリ方面からの撤退作戦の経緯など説明されるとともにアレクシスが補給物資の揚搭基地として大きな役割をもっていたことを強調された。私は私で当時艇隊を指揮して「エリマ」や「マラグン」から転進部隊の収容にあたったことや、たしか十九年の三月頃だったと思うが「ムギル」から「ハンサ」へ安達軍司令官以下軍司令部一行の輸送を命ぜられ、敵魚雷艇の跳梁する中無事任務を達成して、帰路この湾内に入ったときの言い知れぬ安堵感など思い出しながら海岸に今なおのこる大発の残骸をカメラにおさめた。

ここでT/Cの本間氏がホテルから追及し、その夜のウエワク行きの飛行機がウエワク空港の管制設備故障のため欠航との報告がありマダンにもう一泊することとなり、ウエワクへの出発は翌五月二十二日早朝ということになった。予てからマダンとウエワクではホテルの格に雲泥の差があるときいていたので、一同はこの変更を却って喜んだ次第である。

ホテルに帰って昼食のあと堀江団長以下十数名はそれぞれマウントハーゲンとラエ方面行きに分かれて出発して行った。ホテルの前庭では現地人の女性達が首飾りやバッグなどの自家製手芸品を地べたに敷物をしいて陳べて売っている。娘達はこれをひやかしに出かけたが、思ったよりも安かったらしく数本の首飾りを買って帰ってきた。平均して一品一キナ。ひと品買うともう一品サービスしてくれたといってよろこんでいた。翌朝の出発は早く四時三十分にモーニングコールであったが、荷物の整理を終ってから二十三時頃までウイスキーを傾けながら親子で語り合った。

ウエワクとカイリル島・ムッシュ島(五月二十二日~五月二十三日)

五月二十二日五時四十五分ホテル出発。マダン空港に着いたら夜が明けた。六時五十五分離陸マダンを後にウエワクに向う。飛行時間約一時間と短いが、途中「ウリンゲン」「ハンサ」「ラム河」「セピック河」など懐かしいところを上空から望める筈なので、窓に釘づけになってカメラを構えた。生憎と雲に遮られることが多かったが概ね確実に位置を確認できて懐かしかった。特に一瞬ではあったが「ムリック」と「カウプ」を視認できた時は感無量のものがあった。

思えば昭和十九年の五月だったかラム河からウエワクまで蚊の大群を追い払いながら腰までつかる湿地など道なき道を約五十日間かけて踏破したわけだが、その巨大な時空を僅か一時間で通りすぎようとしている今日の自分。不思議とも幸せとも思える瞬間であった。これも亡き戦友の御加護のたまものか。八時ウエワク空港到着。この空港はその昔わが軍の東飛行場であったという。

ウエワクについて私は前記ラム~セピック~ウエワク踏破行の末ここについてからの数日間の滞在と、終戦後この地で濠軍から武装解除をうけ沖合いに浮かぶ「ムッシュ島」に収容されるまでの約一ヶ月余、第五十一師団司令部から先遣されて連絡所を開設し軍の対濠連絡班と武装解除について連絡調整に当った経験があるだけで余り縁がなかったが、何れも昼間行動が主であったのでマダンよりも地形の認識ははっきりしていた。

出迎えのマイクロバスでウエワク半島突端の「パラダイスニューウエワクホテル」に着く。ウエワク半島には当時横穴式の防空壕があり、空襲時の退避に便利だったので最初にウエワクに着いたとき宿営をしたところ。当時度重なる爆撃で無残に地肌をさらしていたこの一帯も、今では緑したたる榔子の美林に覆われすっかり変貌していた。きくところによると昔の防空壕はそのまま残っているらしいが、トイレ代りとなってとても近寄るような状態ではないとのことだった。

このホテルのオーナーは川端氏といって京都出身の人。大学で人類学を専攻したらしいが某テレビ局の一流カメラマンであったが、アマゾンをはじめとする熱帯雨林の取材をしているうちにPNGの風土、民情に惚れこみ、この地に住みついて失った由。現在六十九歳。パプア女性と結婚して子供ももうけPNGに骨を埋める決心をしているとのことだった。近々ホテル業とは別に熱帯魚の輸出事業をはじめようとしている。

その彼にいまよきアシスタントが育っていた。茨城県生まれの二十六歳の青年で前田君である。もうすっかり現地の生活が身につき、黒褐色に陽やけした容姿はパプアと見間違えるほどである。三日間の滞在間、私達のムッシュ島行きやカウプ行きに同行してくれたが実に頼もしい限りであった。世の中には変った人もいるものだと思う一方で何やら羨しくみえた。

この日午前、ホテルから程近い「平和公園」で二度目の慰霊祭。午後は「洋展台」「ウオム岬」などの戦跡を訪れることになった。平和公園は昭和五十六年九月に日本政府がPNG政府の協力を得て建設したもので、その中心をなす慰霊堂には「先の大戦に於てニューギニア地域及びその周辺海域で戦没した人々をしのび平和の思いをこめてこの碑を建立する」と銘記した慰霊碑があり、日・英・ピジン語で刻まれている。堀江団長に代って山岸副団長が祭文を捧げ、一同心をこめて亡き戦友の霊安かれと祈った。

洋展台は飛行第六師団司令部などの在ったところで、ここからはウエワク全体を一望できる。当時の赤茶けた地肌からは想像も出来ない美しい緑の樹々が繁茂し、ハイビスカスなど熱帯の花々が咲き乱れる現在のウエワクはまさしくパラダイスである。洋展台の丘の上に横幅三メートル、厚さ一メートル位の巨石に「英霊碑」と刻んだ碑が故国の方角に向けて建てられていた。余談だが、この碑にまつわる不祥事がささやかれていた。詳述はさけるが、何時の世にも人の善意をくいものにする不心得者がいるものだ。

洋展台から東に走り「ボラム岬」(日本名:阿部岬)に出て「モエム岬」(日本名:松の岬)方面に行く。五十一師団や四十一師団関係者には懐かしいところらしく感慨深げだった。この辺り「ブランディー」という部落に国立の高校があって、この地で戦死した歌手「上原敏」の碑があった。小さな碑なので粗末に扱われてはいけないというので、碑の銘板はこの高校で保管しているとのことであった。

このあと鶴巻川を渡って更に東に走り、斉藤氏(51P)がいたことのある「マンディー」部落を訪ね、こんどは反対方向(西)に走ってウオム岬に行く。ここに濠軍の戦勝記念碑がある。安達軍司令官が赴いて濠第六師団長との間で降伏調印式を行った処だ。ここも公園風になっていて外棚に囲まれており、ゲートで番人らしいのが「イチャモン」をつけてきた。一人あたり三キナ出せというのを強引に突っぱねて車を乗り入れる。三角錐型の記念碑には「日本軍武装解除、安達二十三軍司令官降伏調印の場所」と刻まれていて、わが軍の高射砲など戦利品を配列してあった。

この日ホテルに帰って川端氏から次のような話をきいた。曰く「ウエワクのような街でも定職についている人は一〇%内外。あとの連中はブラブラしている。元来この国の人々は以前の生活をしている限り衣食住に事欠かない。だから勤労意欲というものがない。でも今は貨幣経済だから金は欲しい。そこでラスカルが増えて治安が悪くなる。雇用の拡大には先進国からの投資が必要だが、政府がオーストラリア並みの最低賃金制を定めたものだから企業にとっては人件費が重荷で投資を手控えている。現に彼のホテルも赤字続きで水産関係に転向したいところだが、日本から慰霊団がやってくるうちは心情的にやめるわけにもゆかず迷っている」と。

五月二十三日、この日は二方面に分かれた。斉藤氏や私達親子は海軍の川田氏夫妻と共に「カイリル島」及び「ムッシュ島」巡拝。主力はかの「アイタペ作戦」の激戦地「ドリニュモール川」(日本名:坂東川)をめざして「ブーツ」方面に向った。

十九年六月~七月当時すでに舟艇を失っていたわが中隊は「アイタペ攻撃」(猛号作戦)のため補給品(主に弾薬)の陸路担送部隊としてブーツ西方の「ソナム」から「マルジップ」の間を私以下全員が弾薬の梱包を「背負い子」にくくりつけ夜道を運んだものだった。従って私としてはこの方面にも行ってみたかったが、四月以来脚部の異常に悩んでいたこともあり、島めぐりの方を選択した次第である。

八時半、ウエク半島の根元にあるヨットハーバーから川端氏の持ち舟でまずカイリル島にむけ出航した。この日天気は快晴、波も穏やかで快適なクルージングだった。カイリル島とムッシュ島は幅ニキロメートルの狭い水道をはさんで南北に並んでいる。カイリル島は海抜七百六十メートルと高く、ムッシュ島は百四十メートルと低いので、ウエワクからみるとあたかも一つの島の様にみえる。島の東から水道に入り十時すぎカイリル島の船着場についた。突堤に白ペンキで「ST.XAVIER‘S」(セント・ザビエル)と大書してある。船着場の向うに原っぱがひらけ、その奥の山脚に「セント・ザビエル高校」の校舎があった。

この高校はPNG全土から選抜された男子生徒四百五十名が全寮制の下で学んでいる。この日は校長が不在でオーストラリア人の教師にあいさつ。戦中この地にいた川田氏が日本から持参した沢山の学用品を寄贈された。

川田氏によれば、カイリル島には海軍第二十七特別根拠地隊千五百名が防御陣地を構えていたが、空爆、艦砲射撃、マラリヤなどで多くの戦没者が出て、終戦時の生存者は四百名位だった由。川田氏は経理将校だったが、当時司令官の副官で現在は海軍東部ニューギニア戦友会の会長として活躍されている。同氏はこの処毎年この地を訪れており、奥様もこれが四度目の訪島ときいて唯々頭の下がる思いだった。学校の裏手の山の斜面に川田氏が中心となって建てた慰霊碑(昭和四十三年に石碑を日本から運んで建てたとのこと)があり、川田夫妻の案内で急斜面を登り、野の花と川田氏持参の日本酒などを供え焼香してお詣りした。

学校の会議室(?)で持参の弁当(おにぎりなど)をひらいて昼食。この島の湧水はPNGで一番おいしい水だとの教師の説明つきの冷水をごちそうになり、学校を後にここから数キロ西寄りの「バカラン」という部落にボートをつけて上陸した。川田氏の説明では往時海軍の水上偵察機の基地であった由。部落の人の案内で飛行機の残骸をみて再びボートにのりムッシュ島に向った。

前田君の操縦するボートが着いたところは「ビッグムッシュ」と呼ばれている入江の奥の砂浜だった。終戦後この島に収容されてから死亡した人は千八百名。遺骨は既に政府と遣骨収集団の手で日本に持ち帰っているが、同行の斉藤氏はどうしても一緒に連れて帰りたかった二名の部下をこの島で失った無念の思いが今日まで続いており、今回の旅行もその思いをはらしたい一念で参加したという。

椰子林の中に民家が数軒あった。ここの家の人の話からすると、ここは私や斉藤氏がめざした「安達司令官」の訣別の訓示をきいたあの椰子林ではなさそうだ。しかし、そんなことはどうでもよいということになり、この浜で斉藤氏が中心となって慰霊の供養を行った。斉藤氏は自身で浄書した「般若心経」を唱え終ってこれを奉焼し、われわれは野の花を摘んで供え、千八百の霊魂安かれと合掌した。斉藤氏曰く「今日はよいことをした。これで気も晴れたと」私とて同じ気持であった。十五時ウエワクに帰着。あとで清算した費用は 人当り五十キナだった。

懐かしの「カウプ」を訪ねる(五月二十四日)

二十三日夕食後、翌日のカウプ行きのことで川端氏から情報をきく。まず道路状況だが、彼が十年前にカウプに行ったときは片道六時間要したが、今なら二時間半かければ十分だろうとのこと。理由は、四年位前からウエワク―アンゴラム道(地図にはハイウェイとなっているが実際は片側一車線の砂利道が大部分)の途中からカウプまで、マレーシヤの企業が木材搬出用の道路を造成したからだとのこと。又、われわれ三人がのる四輪駆動車一台はすでに手配済みだという。情報といってもこれぐらいのもので頼りないが、この地で行動する限りこんなことは覚悟の上でなければいけないのだと自分に云いきかせた次第。

五月二十四日、待望のカウプ行きの日がきた。この日大部分の人は通称「山南地区」といって軍が最後に激撃決戦態勢をとった「トリセリ山系」の南側「マプリック」方面の戦跡を訪ねることになっていた。しかし旅行も末期ともなると疲れがでて何名かの人はホテルに残って休養をとった。山南組は予定通り八時すぎ出発したが、私達三人はチャーターした車両が仲々来ない、結局一時間以上遅れて九時半の出発となった。

車はトヨタの四WDトラックのため座席には一人しか座れない。川端氏が急遽ホテルの従業員に命じて荷台に籐椅子二脚をロープで縛り着けて応急シートをしつらえてくれた。川端氏は更に万一(ラスカル対策)のためといって、例の前田君とパプアの青年一人をつけてくれた。車両は「SP」(サウス・パシフィックの意)というビール会社の所有で、ドライバーはチャーリー君(三十一歳)という「SPウエワク支社」の支配人。彼はマダン生まれとのことだったが体躯堂々屈強の若者。これだけ揃えば途中でラスカルに遇っても何とかなるだろうと心強かった。

PNGでは現在でも街から一歩でれば店など全くない。昨日と同様食料を積みこんでの冒険ドライブである。ウエワクを出てアンゴラム街道を時速七十キロでとばす。約一時間はアスファルト道だったが、その後は砂利道でスピードも五十キロ位におちた。急造道路らしく路線は稜線にそって選定され切土、盛土を最小限に抑えたのがよくわかる。従って坂やカーブが多く見通しの悪い道路だ。時おり部落を通過するが生活様式は五十年前とほとんど同じである。これにはおどろいた。

約一時間三十分走ったら進行左側に分岐する道路を発見。車をとめて前田君や同行のパプア青年と協議したが彼等も確信がない。道案内としての期待はしていなかったので、結局私とドライバーの決心でこの道路に入ってみた。程なく遮断機のあるところにでた。番人はいなかったが企業の私設専用道あることは間違いないようだ。更に前進すると伐木が路側に集積してあった。やはりこれだと確信した次第だが、この道路たるや表土をはいだだけの全くの土道だ。これでは雨でも降ったらたちまち泥んこ道になって失う。今日の好天はまさに天のたすけだと思う。しかし路面はよく整形されていて三十キロから四十キロのスピードで走ることができた。荷台の特設シートに座っている娘達に気分はどうかと訊くと「快適よ!」という返事がかえってきた。

この道を走ること約四十分、樹々の間を透して海がみえた。そして、ショベルカーやブルドーザーを置いてある飯場らしい建物のある広場に到着した。数人の労務者がたむろしている。ここでドライバーのチャーリー君が詳しく道をたずねた。カウプはもうすぐ近くらしい。チャーリー君は車を少しバックさせて狭い枝道に入ってゆく。急坂を下ると幅十メートル位の谷川にでた。道はこれまでと思いきや、チャーリー君は果敢にも車を川に乗り入れた。水深はせいぜい三十糎ぐらいだから問題はないが、両岸から伸びた木の枝がバサッバサッと車に当る。ごろごろした転石をのり越えてこの谷川を遡ること約百メートル。対岸に車がやっと通れるぐらいの道がついている。

この道を上って約二百メートル眼の前が「パッ」と開けた。眩ゆいばかりの海と白い砂浜。しかし道はここまで。私は車からとび降りて砂浜に出てみた。左右を見渡したがよくわからない。沖合いにいたカヌーが一隻近寄ってきた。カヌーはアウトリガー(フロート)をつけ舷外機までついている。船頭の青年がカヌーを降りてきた。前田君がカウプの部落はどの方向かときく。船頭の青年が遙か右の方を指さす。砂浜づたいに眼をやると遙か向うの椰子林の中に部落がみえる「カウプだ」往時の記憶が甦ってきた。さすれば、現在地は昔連隊本部のあった山の麓だ。

船頭はカウプの住民だという。前田君が私達のことを説明すると何たる奇遇。この船頭こそが私が知っているナンバーワン酋長「アンドワリー」の孫だったのだ。彼が云うには「これから先は車では行けない」「自分のカヌーで送ってやってもよい」とのこと。願ってもないことと好意をうけることにした。彼等の純朴さと親切は昔と少しも変っていない。私達は一人つつ彼の背にオンブしてカヌーに乗った。

十五分ぐらいして部落の前浜についた。大勢の人が何事ならんと浜辺に出てきた。アンドワリーの孫が私達の訪問のわけを話した様で、みんな親しげに寄ってきて私達を笑顔で迎えてくれた。私は「先ずソルジャーのお墓に参りたい」と案内を頼んだ。墓地は収骨のため何年か前に掘りかえされたとのことで、その跡地であったが私達のために部落の人が数人で手早く雑草を刈りとってくれた。持参の線香をたき日本から持参した珍味や菓子を供え三人で合掌し亡き戦友の冥福を祈った。

部落の中を歩いていたら昔「憲兵ボーイ」といって日本軍憲兵の手先だった「カイバ」の息子と名のる男が寄ってきた。カイバについては私もよくおぼえていた。父親とそっくりの顔立ちに思わず往時に逆戻りした様な思いであった。私が最も親しかったアンドワリーは昨年亡くなったそうだが、このほか大酋長「サンルー」その他の人々の名前もでてきて、今以て私が彼等の身近な人間であることがわかり言い知れぬ感激にひたっていた。持参した供物や薬をプレゼントして再びカヌーで車のところに引返した。実はもう少しゆっくりしたかったのだが、前田君が帰りの時間を心配しているようなので後ろ髪をひかれる思いで部落をあとにした次第である。

カヌーから降りるとき持っていた金(十ニキナと少し)全部を謝礼として渡したら、アンドワリー三世君がいたく感激の様子で「椰了の実をご馳走したいからしばらく待ってくれ」と云う。車の近くにはいつしか十人前後の人が集まってきていた。時刻は十三時になっていたので此処で昼食をとってから出発することにした。

アンドワリー君が近くの椰子の木によじのぼり実を落すと、下にいる連中が手際よく皮をむいて飲み口をつけて全員に振舞ってくれた。娘達にとっては初めて口にする「椰子の水」だ。大きな実を持って言葉もなく味わっている姿をみて「連れてきてよかった」という感動がこみあげていた。われわれが水を飲み終ったら子供達が殻を割って中の軟かい果肉を指で丁寧に刮(こそげ)とり回し食いしていた。彼等にとって椰子の実は今でも貴重品らしいことがわかったが、何よりも物を大切に、しかも天の恵みを平等に分け合って暮している彼等の生きざまに感心させられた。

感動転じて満腹の私達三人が弁当を一緒に食べようと差出す。昔世話になった御礼というには程遠いが、こちらから物を与えることのできる現在の幸せをふと思った。当時のことを実によく記憶している六十歳前後と思われる老人の男女がいた。話題はやはり「柴田氏」のこと。彼が先年他界したことを彼等はすでに知っていた。亡くなる前この地を訪れたときのことをしきりに懐かしんで、夫人の名前「カヨさん」までも知っていた。「シバタ」のほか「ヨコヤマ」「ビッグキャプテンオダ」(船舶工兵第九聯隊長 織田義重大佐のこと)といった名前が次から次へと口をついてでてくる。彼等は当時十歳前後の子供だった筈だ。その記憶力にほとほと感心させられた。帰りの時間も迫ってきたので私がたったひとつ憶えていた「カウプ」地方の歌を披露した。

プラリウェイプラリウェイ

クンゲレーゲレシー

リマンボーラマンボー

オープラリウェイオープラリウェイ

意味は全く判らないのだが彼等も大声で唱和してくれた。こんどは彼等が日本の歌をうたい出した。

夢もぬれましょ 汐風夜風

船頭可愛いや あー船頭可愛いや

波まくらー

ツーツーレロレロ ツーレーロ

ツーレラレ ツレトレ ラレトレ

シャンランラン

と歌詞もメロディーも完璧。これも「シバタ学校」の成果かと、あらためて幼少期の教育の大切さを思い知らされた。

名ごりはつきなかったが、前田君に急かされて十四時すぎ彼等と別れてウエワクに向ったが、感動の余韻はいつまでも続いた。ほんとうによかった。この日一日だけでも遙々PNGまでやってきた甲斐があったと思えた。この日の車(ドライバー付き)のチャーター料金三百キナ(約二万一千円)は決して高いものではなかった。帰途ラスカルに遇うこともなく、十七時無事ウエワクに帰還した。そしてPNG最後の夜は一同最高にもり上がりビールも進んだ。又この日は最高齢参加者の中畔さんの満八十二歳の誕生日とあって川端氏の奥さんが特大のケーキを作ってくれ、夕食の後半は誕生パーティとなり和気あいあいとして刻(とき)の経つのを忘れた一夜であった。

むすび

以上で今回の旅行記を終るが、顧みてこの旅行は「よかった」の一語につきる。何よりも今なお亡き戦友の魂醜さ迷う彼地に直接この身をおいて、いささかなりとも鎮魂のまねごとができたこと、娘達が私の心情を身をもって理解しようとつとめてくれたことの意義は大きい。私のつとめはこれで終りということではないが、言い知れぬ満足感に浸っている今の私である。

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1959年千葉県生れ札幌育ち。事務員をするつもりで就職した会社でSE部門へ。精神と体を鍛えられつつ仕事の楽しさを知る。1986年、結婚を機に来た釧路で株式会社アシストを創業。以来 『仕事をもっと楽しくするには?』 に知恵を絞る。 2014年に 『葉子の部屋』 を、2015年に『つながり空間まめ』をアシスト内にオープン。テーブルを囲んでのお喋りから多くを学んだ子供時代の経験を仕事にも生かしたいと試行中。 絵を描くこと、モノを作ること、自然の中に体を放り込むことが好き。

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