親の歴史は私の土台、古川久三男物語その1

多くの人が夏休みに入るこの時期。

SNS上には「まずはご先祖に挨拶に行かなくちゃ」とか「両親のお墓詣りに行ってきました」なんていう投稿がたくさんアップされています。

私は一足早く、先週のうちに両親が眠るお墓で手を合わせてきました。

今年、私の夏休みは土日も含めて9日間。例年よりも少し長い休みなので、その間に残り少なくなった(笑)自分の未来について考えることにしました。

「考える」といっても、頭の中で思いを巡らせているだけではなく文字にします。その方が考えたことが次の行動につながることが多いので。

この「頭の中を文字化して次へと進む」方法。私は亡き父から受け継ぎました。

ものの考え方や結論の導き出し方って親の影響が大きいと思うのです。少なくても私は父からの影響が絶大です。

自分が何故そう考え、何故そうしたいと欲するのかを知りたくて、父の過去、父の歴史に関心を持ち続けている私。

今春、そんな私に一つの封筒が手渡されました。

5年ぶりに日の目をみた茶封筒

それはかつて父に届いた郵便物で消印は2019年9月13日、差出人は三重県に住む中川さんです。日ごろは思い切りよく物を捨ててしまう姉が、この郵便物は捨てずに持っていてくれたのです。

差出人の中川さんはかつて父にインタビューをした人。インタビューの目的は「戦争体験者の話を聞いて記録として残す」でした。父が中川さんの申し出を了承してインタビューが行われたことは知っていましたが、その後について私は知ることなく時が過ぎました。

ある日、私が姉に「今度ね、パパが書いたパプアニューギニア旅行の手記をブログにしようと思ってるの」と話すと、「そう言えばこれ見たことあったかしら?」と前述の封筒が出てきたのです。

封筒の中には父へのインタビューを文字化した原稿が入っていました。原稿を手にした私は「この文章もウエブ上に残して、いつでも読めるようにしたい!」衝動にかられました。

幸運にも封筒には中川さんの携帯電話番号が書かれており、私はすぐその番号に電話をかけてみました。その時点では応答がありませんが、しばらくして中川さんが折り返し電話をかけてきてくれました。

私が「あの原稿をブログに載せたいので了承して欲しい」とお願いすると、中川さんは「あれはお父様の話した言葉ですからお父様のものであって自分に著作権とかそういうものはないですよ」と言ってくれました。

中川さんは、太平洋戦争を経験した人の証言を他人の解釈や意図が入らない状態で残したいとのことでした。「大正生まれの方の青春時代に戦争があり、その現実の中でどう生きたのかが重要」というお気持ちで200名近い方にインタビューをし、文字化して記録を残す活動をされているとうかがいました。

誰の編集も入らない、本人が発した言葉そのままを残す

父の歴史を知りたいという気持に中川さんの言葉が加わって、原稿に残された言葉をウエブ上に残したい気持ちはさらに強まりました。

ウエブ上のどの場所が父の言葉を残すに相応しいだろう。悩みましたが…私に関わることなんだからココで良いじゃないか(笑)との結論に至った次第。

文字のボリュームはそれなりにあります。なので3回に分けて公開します。

音声を文字化した関係で人名や地名に間違いがあるかも知れませんが、間違いについては分かった時点で随時訂正します。

獨立工兵第一聯隊 古川久三男へのインタビュー

(どくりつこうへいだいいちれんたい ふるかわ くみお)

■インタビュー日  2019年5月14日

■インタビュー場所 古川久三男 氏自宅

■インタビュアー  中川法宏 氏

陸軍士官学校55期生

士官学校に入る一番大きなきっかけは、当時中学校以上の学校には配属将校ってのがいたでしょう。私は沖縄の中学校に行ってたんだけれども、その配属将校の人で都城の23聯隊から派遣されてきていた大野金吾さんって少佐の方がいたんです。配属将校のすすめがあったって事と、古川家はどこをとっても豊かな家じゃないんでね。沖縄に行ったこと自体が家の借金整理のために沖縄の友達を頼って行ったっていう親父ですから、経済的にも自分で学校を選んでいくようなことできないんで人様のすすめに乗っかったって事です。配属将校のすすめが一番大きかったと思いますよ。私にしてみれば親にあんまり負担をかけたくないですから士官学校にすすんで官費学生になるわけです。

↓ 宮古中学校時代(久三男12歳)

私はまず陸軍幼年学校をすすめられて、宮古島から一人で鹿児島まで行ったんです。大野少佐は古川家に餞別まで持ってきたそうで、親父は断ったんだけど大野少佐が置いていったそうです。幼年学校を受験できるのは中学2年まで。わたしも中学2年の時に受けました。鹿児島でもって身体検査を受けて、学科試験は那覇に戻って那覇で受けたって状況です。これが身体検査は良かったんだけど学科試験のほうが最初の方は受験勉強してたわけでもなかったし、なんかなじめなくてね。

試験会場は那覇の聯隊区司令部だったんですが、帰って来てそこの聯隊区司令部に勤務してた曹長の方が試験監督してましたけど、彼らにとって沖縄や宮古の学生が陸軍の学校の試験を受けに来てるのが嬉しかったみたいで、試験が終わってから茶話会みたいなのをしてくれて「余興に詩吟をやる者はいないか」って言う。私は歴代の配属将校が詩吟をよくしてたから「下手だけどやります」って何をやったか忘れましたけど詩吟をやらされました。聯隊区司令部はよくもてなしてくれましたが幼年学校は落第でした。

予科士官学校に合格して入ったのが中学4年でしたから、間は2年と短かかったですね。学校から帰ってきたら過去の予科士官学校の試験問題を独学で解いてみたりしてやってましたけどね。私の記憶に若干残ってるのはまず西洋史。その西洋史でドイツとフランスの関係について述べよっていうのがありましたね。これは私が大変お世話になった会津若松出身の恩師、慶徳(けいとく)先生っていう方なんですが、その先生が非常にそのような関係が得意で西洋史にはこっちも興味を持って聞いてましたから、その問題はうまくいった気がする。あとは受験科目の中に中学4年の一学期ではまだやらない不等式の問題だとか幾何の問題だとか一般の学校の問題とほとんど変わらないですよ。

↓恩師、慶徳先生と

試験は割とシーズン的にも前の年の秋ぐらいにやるんで普通の学校よりも早かったんですけど、昭和13年秋あたり、教育総監部から合格通知が電報で来ました。それで一人上京したんですが、東京には親戚がいるし兄貴が今の一橋大、当時の東京商大の予科にいってましたので兄貴が引き取ってくれて、もう一つ上の兄貴が警視庁の警察官やってて入校前の着校って式の前に学校に宿泊したりするんですが、警察行ってる兄貴が付き添ってくれて入りましたけどね。

↓上京前に家族と平良町字西里340番地にて(久三男15歳)

ここでは本科でも同じなんですが普通学と軍事学を学ぶんですが、私の感じでは中学あたりでやった学校教練と同じなんですよ。むしろ学科の方が重視されるということで外国語、国語、漢文そのほかいろいろありますが学科が非常に印象に残ってますね。外国語教育に関しては入校してから当時は中学生扱いですから英語はみんなやりますわな。それを抜きにして幼年学校から来た者、一般中学から来た者に問いかけがあったんです。「お前は支那語、お前はロシア語をやれ」とかです。英語、ドイツ語なんかは幼年学校から続いたんですが新たに割り振られた気持ちで私は中国語をやらされました。幼年学校から来た者はフランス語とか多くやらされたんですが、我々中学組はいままで英語をやってたのを一回白紙にして、英語をやるかロシア語か中国語をやるかってとこでしたね。西洋系の教員はいなかったですが中国語は戴恩林って大陸じゃなくて台湾の方だったのかな?非常にユーモアのある先生でした。生徒たちの中でも満州国から満州国生徒隊が来ていて結構絞られてた。一緒になることは無かったですね。レベルが違うから。

予科にいるとき教育に当たる戦地帰りの先輩付け、区隊長ですね。実戦の経験がある方ですからね。私の場合は福知山の20聯隊の第3中隊長、森区隊長がそうです。三重県の方です。森区隊長はずいぶん広範囲に動いておられたみたいですね。戦争終わって帰って来てからいろんな問題で裁判の証人で忙しかったようです。福知山第3中隊史って区隊長が編纂したんだか部下が編纂したんだか、私の所に送ってくれました。

予科は一年なんぼですね。時が時、戦の最中ですから短くなったんだけど14年の11月頃終わって14年12月には本科に移りました。

↓ 予科時代

私の場合、東京赤羽にある近衛工兵聯隊に配属されたんですけど内容は昔からの伝統的な教育だったと思います。橋にしてもガ橋といってセットがあってそれを組み立てるだけのものです。そういうおぜん立てがはっきりしてる作業なんですが、そういう教育をされました。実際に戦地に行くとその時その時の状況でそれに応ずる対応しないとダメです。

工兵ってのは甲乙丙丁と7種類ありました。甲は師団の中の工兵聯隊でごく普通の工兵で、乙は穴掘り、地中戦です。昔の旅順攻略戦がありますけど、それの専門部隊。丙は重が橋といって当時戦車なんか増えてきましたので、それ用の橋を架ける。丁は敵前上陸専門の大発、高速艇、小発動艇なんか特別な装備で敵前上陸をやる部隊で、私なんか最終的にはそこまでやりました。戊はソ満国境を念頭に敵前渡河を目指す部隊が母体です。あとは水井戸掘り、電気、鉄条網を張り巡らせて電気を流す電気障害物。電気の部隊は千葉県の鴻之台にありました。

予科を卒業する前に兵科が決まり、どこの部隊に行くか決まるわけですのでギリギリ詰まったところでもって「赤羽に行って勉強しろ」ということで、昭和14年の秋口近くに新しく行ったわけです。近衛工兵といっても師団ですから、一般の師団と同じで本科に入る前の隊付きですので、翌年の4月までの間ここで鍛えられるわけだけど階級は上等兵としてです。本科に上がるころには軍曹まで上がっています。

私は最初は航空を志望したんだけど、落とされたので軍の主兵は歩兵ということで歩兵として第一線に行って軍旗の下で死にたいと盛んに言ってましたけど、一人一人、屋上に集合されまして当時の中隊長、区隊長と面接して中隊長から「お前は正式に工兵となった」と宣告されました。そうなったのは隊付きの直前です。

↓ 予科士官学校卒業証書

第一次長沙作戦

士官学校は2000名近い生徒が卒業する訳だけれども天皇陛下がお見えになりました。私の父兄として親父と警察官やってる兄貴が卒業式に出席したんだけど、天皇陛下は車でおいでになって結構遠くから拝んだ人が多かったですね。親父や兄貴は非常に感動してました。結構近くから拝めたようです。あの時陛下は何かおっしゃったんでしょうが、とにかく車で閲兵だけはされてたんだと思います。

満州から始まって北支、北京天津あたり、南に南京上海、さらに南で広東のほうに行って仏印や東南アジアあたりまで展開してるでしょ。本科卒業後、私たちは守備隊として中支派遣軍として行くためにいつごろまで待機するということで、私たち近衛工兵出身者は新しい獨立工兵第一聯隊付けって決まってるんだけど、近衛工兵聯隊編成部隊である近衛工兵聯隊にしばらくいて、部隊の雰囲気を十分に吸収してそれからということだったんだと思うんだけど、一カ月近く赤羽に置かれました。そこで招集して一度軍務についてたのが除隊になって郷里に帰ってたのが再招集された補充兵の教育を担当してました。一カ月を少し超えたぐらいやりましたかな。それから大陸に渡ったんですね。赤羽には私ら見習士官が9名おりましたが一緒に宇品から上海に上がったのは3名です。

↓ 見習士官時代(後列右が久三男)

上海からは行き先が決まってるわけですよ。湖北省沙洋鎮に赴任すべき獨立工兵第一聯隊がいたわけです。揚子江をさかのぼって漢口で降りて、漢口ではホテルに泊まったりして、鉄道で岳州にいって、そこから沙洋鎮ってところにみんないたんですよ。

最初はどこに行けなんて言われてなかったもんだからまず漢口まで行って、情報を得て揚子江ホテルってところに泊まってたんだけど、たまたま漢口に公務で来ていた聯隊の主計さんで慶應出身の丸山五郎太さんが、軍司令部から聞いたんでしょうが揚子江ホテルまで訪ねてきてくれたんです。それで獨工一の連絡所みたいなところが各部隊あってそこに来てたんですな。

「古川見習士官、これから第一線に行くようだけどとてもそんな服装ではだめだ。一応、用意したけど体に合うかどうか着替えなさい」って言われて兵隊さんの服をもらって、階級だけは見習士官だから曹長の階級ですわな。軍服、靴、ゲートルだとか一式もらいました。身の回りの物を整えて第一線の岳州に行ったんですが、岳州でもすぐに沙洋鎮まで行けなくてたまたま食料運びに来ているトラックに便乗して聯隊に一人で到着したわけです。

私がここに配置になるってことは一戦始まることだと分かりました。沙洋鎮に着いた日の明け方、敵の襲撃を受け、無差別に撃たれましたから。情報として丸山さんにも言われたし、いろんな情報をもらいましたよ。今、沙洋鎮にいるのは獨工一の第一中隊と聯隊本部と材料廠だと聞いていました。聯隊本部に行って申告したんですが「わかった。明日からお前さんを戦地に慣れさせるために俺が直接指導するから」って聯隊長が直接指導してくれた。これが非常にありがたかった。やっぱり戦地の生きざまは普通と違うから戦地の独特の雰囲気に慣れるのは大変なんです。それを当時中佐の織田聯隊長がしてくれたんです。この方は栃木県の大谷の方です。

第一次長沙作戦の第一線は河だったんですよ。その河をはさんで南側が中国第三戦区っていって辟岳の支配下にあったんです。その河の向こうに敵が配備してるんですが、開戦と同時にそこを突破して行かなきゃいけないんで色んな情報を収集してたんですが、聯隊長自らその情報を把握して渡河作戦の主役にならなきゃいかんという頭があって、私を中隊配属にするのではなくて、この戦が終わるまでは「俺が直接指導するために連絡将校をやれ」ってことで聯隊長にいろいろ教えてもらいました。今もってそれが非常にありがたかった。連絡将校は他部隊との連絡をするために馬をあてがわれて行くわけです。非常に危険な所に行ったこともあります。

聯隊長が「俺の後をついてこい」って、河なんですが、堤防の手前で伏せの姿勢をとって軍刀の尻で枯れ草を静かに倒して敵に気づかれないように相手の動向を探るなんて教えてもらいました。草をスダレがかかっているような状態から双眼鏡で敵情を探るなんてことを何日かやりました。少しでも動くと200メートルぐらいの川幅があるんですが、敵の銃撃がバババッ!っと来るんです。私なんかも耳のそばで枯れ草が弾にあたってね。「ああっ、助かった!」なんて思いしたこともあります。織田中佐自ら私を率いて経験させてくれました。中佐はすぐに大佐になりました。

私らの正面の河は船の上に歩板をつけて渡れるようにする船の橋、舟橋と、うちの聯隊が担当だったんだけど列柱橋っていって杭を打ってその杭の上に補板をひいて車が走れるように橋を架ける。ほかにボートでもって渡ったのもいるんだけど、まとまった兵力を集中させたのは大阪の8聯隊が主力です。当時大阪の部隊を又8なんて馬鹿にしてた。「又も負けたか8聯隊」なんてね。連絡将校だったからその又8の聯隊本部にこっちの聯隊本部の連絡事項を持って行ったことはありますけど、その時作戦関係の主任やってたのが私の3期上の52期ぐらいの方だったですね。

↓ 舟橋

渡河する時は長沙作戦の時に限らず、戦時の鉄則みたいなものでお互い対峙してるでしょ。これから攻撃をするとき、攻撃準備射撃ってのが大砲で徹底して集中火をあびせ、それに呼応して地上から機関銃なんかを掃射します。作戦発起が16年の9月17日か18日だったと思いますが、その時に第4師団がその正面の重点地域だったんです。いろんな種類の橋を用意していました。一番近かったのが大阪の師団と熊本の師団で、ここで編成した部隊って印象しか残ってないんだけど、18日の早朝薄暗い時、ひどい攻撃準備射撃で耳をつんざくような攻撃で始まりました。向こうも掩蓋を被った陣地の中に入ってましたが、こっちの攻撃に耐えきれなくなって、ちょろちょろ逃げ回ってるのが双眼鏡で見たら分かるんです。わたしの部隊は前に出るなと他の部隊からも言われてるから観戦してるようなものなんです。ですから防御に落ち度がないようにしてました。

夕方になったら日本独特の死体を焼くにおいがしてきて、それで河の向こうに渡っていいということで部隊で河を渡ったんです。最初の晩のことだけ覚えてるんだけど、一緒にいた聯隊本部の兵隊さんが民家に干してある稲わらをむしって土間へ臨時のベッドを作って寝かせてくれました。湖南省ってのはコメの産地で米作農家が多く、どこの家にも稲わらが干してあるんです。それ以降どうだったかあんまり覚えてないな。

二日目だったか三日目だったかと思うんだけど、栗山巷って街を占領したときに見習士官から少尉に任官したんです。もう一度はその近くで敵を捕虜にしましてね、そのあたりの住民と一緒に兵隊も動いてるって聞いたから捕まえないとダメだと。捕まえた中に四川省の軍官学校を出た少尉がいました。上級部隊に送りつけたらしばらくこの少尉を部隊と一緒に連れて歩け。いろんな情報が入るかもしれないからって、その少尉、梁少尉を連れて歩きました。

後の話だけど、お互い敵なんだけど、彼はこっちの部隊になじみましてね、私は士官学校で支那語をやったでしょ。だから私が通訳がわりで彼の相手して私の部隊が面倒見てた。ジャワから帰ってきたとき彼と面会する機会があったんだけど、彼は漢口の汪兆銘政府に就職してまして、服装からして立派でした。

古川久三男物語その2へとつづく 

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1959年千葉県生れ札幌育ち。事務員をするつもりで就職した会社でSE部門へ。精神と体を鍛えられつつ仕事の楽しさを知る。1986年、結婚を機に来た釧路で株式会社アシストを創業。以来 『仕事をもっと楽しくするには?』 に知恵を絞る。 2014年に 『葉子の部屋』 を、2015年に『つながり空間まめ』をアシスト内にオープン。テーブルを囲んでのお喋りから多くを学んだ子供時代の経験を仕事にも生かしたいと試行中。 絵を描くこと、モノを作ること、自然の中に体を放り込むことが好き。

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