この物語を書くにあたって、父が残してくれた文字や写真のほかに頼りにしたものがあります。
それは実家を解体するとき、膨大な父の蔵書の中から「せめて一冊は持ち帰りたい」と手にした本、父と同じく獨立工兵第一聯隊で小隊長をしていた大山冨士夫さんが発刊された「南溟鎮魂記」(なんめいちんこんき)です。
南溟鎮魂記には聯隊の詳細な行動が記されていて、父のインタビュー記録と照らし合わせながら地名や行動の時期を確認することが出来ました。
このような「記録」があるからこそ「知る」ことが出来る。私が書くこの物語も、父にとっての孫たち、はたまた見知らぬ誰かの「知りたい」に役立ててもらえたらと思っています。
ラバウルへ
ブーゲンビルからラバウルへ移動になりました。ラバウルは日本の占領ですが、ニューギニアを抱えてるでしょう。いろんな関係で手不足なんです。上層部としては発動艇が操作できる部隊が欲しかったんですな。私に教育をやれということで当時、山形で戦車を扱ってた部隊をエンジンを扱えるからってことで上陸用舟艇の訓練を担当することになりました。私の中隊を使って各部隊から集まってくる兵隊をしばらく訓練させました。
ニューブリテン島の北岸に行くとやられたり座礁したりするから、そこに安全な基地を造れってことでうちの部隊を分散させて10か所ぐらい基地を造ったり、軍が持ってた装備、機関銃や通信機を配備しました。それから私がニューブリテン北岸水路教導隊長って名前をもらって他の部隊を生徒にして訓練をやったり、それを結果をチェックするからって軍司令官がお出ましになって報告をしたりしているうちに、やっぱり輸送部隊にはできないってことで、サンゴ礁に座礁したり飛行機にやられたりしたとき、すぐに処置できるようにラバウルから西のツルブまで基地を造ったんです。割と重宝がられましたね。これには海軍の了解も得てやりました。私がいた本部はタラセア(浅野注:ニューブリテン島)ってところでヤシ林が綺麗にあるところでカカオがたくさん採れるところでしたよ。
ラバウルには慰安婦もいましたよ。慰安婦が金たまったから内地に帰ろうと船にのったら、その船がやられて犠牲になったって話は聞きましたよ。6師団の将校なんか行列してたんじゃないかな。
戦争終わる
終戦間際は敵のB29が一機で来て爆弾落とさないで行っちゃう。そんな感じであんまり攻撃を受けてません。
終戦の知らせはパプアニューギニアの真ん中あたり、カジミンって所です。ここで51歩兵団司令部の部員をやってたとき、いわゆる参謀ですよ。その時に無線が入ったんですよ。降伏するからって。豪州隊6師団だったかな?軍司令官、我々のトップが何日にウエワク(パプアニューギニア北部にある町)で降伏の調印すると。
終戦を聞いた時の心境はホッとしたということです。まわりのみんなもそう言ってた。「まだ日本にも物のわかるやつがいたんだな」なんて。好感を持って受け入れられましたから、軍の中で反乱が起きるとか、そんな心配は無かったね。私たちが終戦を知らされたのは8月15日ではなく19日ごろでした。無線はあったものの情報が遅れてきて、更に末端の部隊に命令が届くまで、そこから10日はかかっています。
それに伴って部隊の末端まで天皇陛下のご命令と同じだからそのつもりでやれと言われました。私が歩兵団長から言われたのは「古川、どのような手段でもいいから末端まで敵と交戦しないように通達せよ」そう厳命されたもんですから、各部隊に周知させるのに一苦労ですよ。手段の一つとして、こちらに友好的な原住民を使って道なき道のジャングルの中をこちらの命令文をもって伝えに行くんだけど、土人は足が速いですね。
もう一つの任務はウエワクに入る前、私たちが待ち構えていて、到着した日本軍に武装解除の要領を教えました。ここを通過したら豪州軍の兵士が一品一品調べたりなんかして通過させます。所持品検査にも立ち会ったし、軍刀の回収にも立ち会いました。もちろん私の軍刀もです。私の軍刀は任官前に親父に買ってもらったんだけど銘がない。兵士の身体検査や持ち物検査が終わったら、港から向かいのムッシュ島に収容する担当もやりました。私も一番最後にここを通過しました。
豪州軍が宿営地を視察するから各部隊それなりの準備をしろと堀江少佐から伝達がありました。「これで解散するが、解散後51歩兵団の古川大尉、残ってくれ」私は最後、51歩兵団に編入されてましたから、これで現地に残されていろいろ豪州軍の付き合い方を教わりました。
私は直接、豪州軍とやりとりはしなかったですが、同期の柳君とNHKのアナウンサー上がりでやたら英語を使ってたのがいました。ビタミンのことを「ヴィタミン」なんてさかんに言ってましたよ。豪州軍へ各部隊から何名かづつ使役で毎日出ていました。やる仕事はなにかって彼らの汚物を処理するんです。処理の仕方はガソリンをまいて焼くわけだ。「中隊長殿、もうヤケクソですよ」なんて報告しに来ました。
毎日そんなのが続いてたんだけど昭和21年の2月、氷川丸で浦賀に引き上げてきました。寒かったな。伊豆7島の沖辺りで富士山を見たのね。氷川丸では船倉の一番下に押し込められました。でも船の方で日本の歌を流してくれました。リンゴの唄も流れてました。
日本に帰って来てから百姓の手伝いをしてました。そのうちに手伝いだけじゃだめだから、親戚の者が東京で商売をやるので、神田の店からサッカリン・ズルチンを卸してもらってお菓子屋さん相手に売りました。
日本通運の営業所に勤めていたとき、私の同期の賀陽(かよう)ってのが「古川、自衛隊の試験、受けるだけでも受けてみろ」全国から同期が試験受けに来るだろうから、懐かしい連中に会えるかもしれないからって目的で試験受けに行ったんです。国の防衛でなくて同期に会えるだろうから二人で受けたんですが、彼は落っこちて私は受かった。彼はその後補欠で入ってきました。
最終的に施設工兵の第三施設団長って南恵庭の駐屯地司令を兼ねてます。自衛隊では工兵の事を施設と言います。私が第一次長沙作戦の渡河についていろいろ解説するのが茨城県勝田の施設学校では有名になって、渡河の神様ってことになってます。
戦後はみんなが古川会を作って集まっていました。戦争によってかけがえのない人のつながりを得たんです。
浅野のあとがき
父へのインタビューはここで終わっています。たぶん父はもっと話したかったでしょう。
このインタビューを受けた時、父の年齢は96歳です。70年以上も前のことを克明に覚えていることに感心します。
その昔、私から父に質問したことがあります。「何故そんなにも昔のことを克明に覚えているの?」と。父の答えは「それだけ強烈な体験だったということだろうな」でした。
その強烈な体験を本人から聴くことはもう出来ません。このインタビューから一年と七か月後に父は亡くなってしまったからです。
この文章だけでも残ってくれて本当に良かった、本当にありがたいです。遠く三重県からはるばる札幌まで足を運んでインタービューして下さった中川さんに心から御礼申し上げます。
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