親の歴史は私の土台、古川久三男物語その2

こうして古川久三男物語が書けるのは、父が残してくれた「記録」のおかげです。文字も写真も動画も、見切れないくらい沢山残してくれました。

限られた期間ですけれど戦地での写真もあります。写真には裏書されているものがあって、このブログに使う写真を選ぶ際の重要な手掛かりになりました。

↓ 写真の裏にはこんな文字が

父が生きているなら確かめたいことは多々あります。でも今は叶わないこと。かつて父が話してくれたこと。残してくれた文字や写真。それらを寄せ集めてこの物語を書いています。

大東亜戦争始まる

大東亜戦争始まった時は長沙作戦で一戦終わって、なんか分からないけど漢口で船に乗せられて、揚子江を下って南京上海地区で降ろされて、知らず知らずのうちに南方の方に部隊が移動してる。一体なんだろう。中隊長に聞いてもわからない。極秘でただ部隊が動いている状態でしたな。ですから16年12月8日は揚子江の船の中にいて、そこで大東亜戦争始まったと聞かされたんです。

とどのつまりは台湾の高雄で集結され、高雄で次の作戦準備ってことでジャワ作戦、インドネシアに行く準備です。情報だけもらって普通の訓練を高雄の小学校の校庭借りながらやったり、台湾精糖の楠枝にあるクラブに我々将校は泊められて3月1日のジャワ上陸を待ったんです。実際の上陸は(浅野注:昭和17年)2月28日ぐらいでした。

西部ジャワのバンタム湾に敵前上陸です。私たちは敵前上陸専門の部隊に衣替えしてないですよね。その時は普通の工兵として胸の辺りまでザブンと海につかり、軍刀を頭の上にあげて珊瑚の上を歩いて上陸したんだけど、それをわき目に海軍の船が通り過ぎて行った感じです。

あがってみたら道路は寸断されてるし、でかい街路樹なんかみんな切り倒して爆破して道路を破壊して、我々の進路を妨害していました。その時は司令官が今村閣下で、龍城って陸軍の空母(神州丸、R1、GL、MTなど呼び名あり。航空機最大搭載12機)で指揮を執っていました。上陸の時は龍城もだいぶ浸水して今村閣下も泳いだんですよね。その他にヒューストンって東南アジア艦隊があって、それに対して日本の駆逐艦が魚雷攻撃して旗艦のヒューストンを沈めたのを見ました。早朝の戦いですね。

↓ ジャワのようす

上陸したときは敵は逃げちゃってていなかったんですが、独特のにおいがしましたね。民家が点在してるんですが、部下を引き連れていつの間にかそんなところに迷い込んでるんです。その時は聯隊長のお膝元から離れて第二中隊の第三小隊長をやってました。なんか夢の中みたいでしたね。日本と同じ稲の田んぼがあって、月が出ていて敵の抵抗もない。静かな夜で、そこで稲を見てると郷愁に陥った記憶があります。日本にいるのと変わらんじゃないかと。この時の戦いで行ったのはバタビア(浅野注:現在のジャカルタ)の近くまで行きました。私の場合、軍部から指金があったのか選ばれたのか、バンドンまでの街道があるんですが、事前に敵情だとか進路だとかを報告しろと私が特命をされたわけです。日本軍としてもバンドンまでは攻めたかったんでしょうな。でも部隊全体としてはバタビアのそばにとまって敵情偵察なんかが主な任務でした。

↓ 橋梁をかける獨立工兵第一聯隊

中国大陸からブーゲンビルへ

ジャワ作戦後、軍の命令で獨立工兵第一聯隊は浙贛(せっかん)作戦に参加するため一回中国に帰るんですよ。台湾海峡経由で第13軍、沢田中将の隷下に入ったんですけども、これには杭州湾上陸も一つあるし、上陸部隊が使ってた船を使って輸送手段を確保するために杭州でもって、方々から集まってくる船を泛水って浮かべる作業をやらされたですな。地上の道は車が通れるような道なんてありっこ無いんだから。ランケイってところまで河をさかのぼって、敵が設置してる障害物、機雷を排除するのをうちの聯隊がやらされたですな。そんなことばかりやって、敵の第一線の小競り合いとで忙殺さえれた時期がありましたね。

杭州ではデパートの白木屋が経営している飲み屋に飲みに行っていました。パムゴンスなんて呼んでました。うちの中隊に吉田君ってのが中隊付けで来たので、祝いの酒をどこで手に入れようかと思って行きつけのパムゴンスに行ったらタダで5本ぐらいくれた。

↓ 杭州にて(前列左から三人目が久三男)

浙贛作戦がひと段落ついて沙洋鎮に引き上げたと思うんですが、漢水って支流があるんですが、そこをさかのぼって日常的なことをやってたんですが、今度はうちの部隊そのものが敵前上陸専門の部隊になる都合があって上海の方に集結し、そこでもって船をもらい、その操作を覚え、しばらく訓練を受けとったです。

大発(浅野注:大発動艇という上陸用舟艇)が主力、それと小発、そのほかにラバウル(浅野注:パプアニューギニアのニューブリテン島にある町)に行く頃には強化されましたし、ガ島(浅野注:ソロモン諸島のガダルカナル島)の撤退についても上級司令部でも盛んに言ってましたけどね。ガ島が撤退することになって第6師団がその先頭を切って作戦の前触れをやることになって、それを支援する部隊にいきました。表立って命令を受けるとかではなくて行動でもって感ずるだけで、当時の聯隊長とか中隊長とかはちょっとした情報をもらってたからうちの部隊はこう動いたとかあるでしょうけど、私たち末端ですから言われるままに動いたんですね。

上海で訓練を終え、一応格好のついた敵前上陸の丁部隊でしたね。だからやっぱり台湾経由だったんだけど澎湖島経由だったです。当然ですが各輸送船、輸送船そのものは高射砲や高射機関砲を舳先のほうに一門か二門舳先のほうにあるだけで、これといった装備はないですから、海軍の力が大きかったです。私の場合、トラック(浅野注:たぶんトラック諸島のこと)に行くあいだに聯隊主力はラバウルに行け、一個中隊は第6中隊と一緒にガ島のほうに行けということで、私の中隊はガ島のほうに行くことを命ぜられたんです。それからがいろいろ始まったんです。新品少尉がやることではない、少し重荷かなと思いましたね。

ブーゲンビル(浅野注:パプアニューギニアのブーゲンビル島)に行くまでに私の乗せられた輸送船も、うちの先任小隊長あたりが乗った船や二つか三つに分かれて到着したんです。到着したときの上級部隊の参謀が和歌山県出身の我々士官学校予科の区隊長の三岡健次郎さんで、この方は46期のトッブなんだよね。三岡さんが兵団の参謀で私をいろいろ指導してくれました。「ブーゲンビルのトノレイ湾って所で駐屯してなさい」って次から次へと任務をもらいましたけどね。その任務は主にガ島を撤退してブーゲンビルでもってそれを収容するんだけど、そのための補給業務があるわけです。食い物もないところにいた連中が来るわけだから食料だとか装備だとかいうのをブーゲンビルのブインってところで陸揚げするんですよ。

↓ ラバウル・ブーゲンビル位置図

その任務をやったりしましたけど、一番大きかったのは三岡参謀が「おい、古川、お前55期だから知ってるだろうが、誰それが必要とか、ラバウルへ撤収して本来の聯隊の指揮下に復帰する命令出す前に、何隻かのラバウルに引き上げる船があるから、その前後をお前が指揮することになるんだよ」

私にそんな任務が務まるのかなと思いましたが三岡参謀にいいように使われました。ブーゲンビルではB29の夜間空襲は食らいましたが、的が違ってて音だけは大きかった。陸上とか海上からの攻撃を受けることはありません。

実際にガダルカナルを撤退する時には主に海軍の仕事なんですよ。護衛関係はね。海軍の駆逐艦の艦隊が陸を支援してくれたわけです。あの時の軍司令官はガ島の方にいた軍司令官は百武閣下で、船舶部隊は櫻田少将です。部隊がガ島を撤退して我々の待つブインの海岸に着いたとき、百武中将と櫻田少将とが我々が運航してる折り畳み舟に二人の閣下が肩を組んで乗って行ったのを目の前で見ていました。

私の同期生で予科で同じ区隊だった田原隆俊ってのがいたんだけど、その田原君が偶然私を見つけて握手してきた。「なんか欲しいものはないか」って聞いたら「タバコがほしい」っていうから箱出したら全部取られちゃった。そういう話もありますけどね。田原君は戦後、自衛隊に入って体育学校長になりました。

この頃中尉になりました。聯隊長にガ島の撤退到着の報告に行ったら「おう、おめでとう。今度は中尉だな」そういわれました。

古川久三男物語その3へとつづく

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1959年千葉県生れ札幌育ち。事務員をするつもりで就職した会社でSE部門へ。精神と体を鍛えられつつ仕事の楽しさを知る。1986年、結婚を機に来た釧路で株式会社アシストを創業。以来 『仕事をもっと楽しくするには?』 に知恵を絞る。 2014年に 『葉子の部屋』 を、2015年に『つながり空間まめ』をアシスト内にオープン。テーブルを囲んでのお喋りから多くを学んだ子供時代の経験を仕事にも生かしたいと試行中。 絵を描くこと、モノを作ること、自然の中に体を放り込むことが好き。

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