今日のタイトル、私のブログ史上最短な気がします。
何を残すって…
いったい誰が?
いつ?
どんな場面での話?
それは自分が亡くなるときの話です
「自分は何歳まで生きるのかなぁ」
誰かの訃報に接するとそう思いませんか?
身近な人の訃報でなければ悲壮感は無し。漠然と「私の余命はどれ位かな」という言葉が頭に浮かぶんじゃないかしら。
仕事に、プライベートに、と慌ただしく動いている時は、人生が有限なことなど意識の中に無いけれど、自分と年齢が近い人が亡くなったと知ると、ふと「余命」や「晩年の過ごし方」が頭をよぎる。さらには
「私は亡くなるまでに何を残せるかな」
「亡くなったあとに何が残るんだろう」
と考えるのが近頃のワタクシです。
↓ 98歳まで生きた父の姿は私の道しるべ
お金を残す
私の父は晩年、光熱費を節約して暮らしていました。その頃の父は90歳台後半。血行は年齢相応に悪くて冬はとても寒かったはずなのに、ストーブの火は常に小さい。
実家で父と二人の夕食。ストーブの温度設定が低いのでライトダウンのコートが脱げません。我慢します。家の主は父だもの(^^;#北野基地物語 pic.twitter.com/EIaw5o80T2
— 浅野葉子♡レンタルスペースつながり空間まめ女将 (@karimeroyoko) March 18, 2017
父の介護に通っていた姉がたまりかねて「パパ~、何故もっと部屋を暖かくしないの?」と聞いたら、父は「節約して子どもたちに少しでもお金を残したいんだ」と答えたそうです。
身体が思うように動かず、家族に身の回りの世話をしてもらっていた父。
逆に父が家族のために出来ることは?と考えたときに「お金を残す」が唯一のことだったのかも…
思えば、一年半前に亡くなった夫も同じような想いだったのでしょう。
一年のうちでゆっくり休めるのは大晦日と元日だけの日々から一転。夫は自身の体に病気が見つかり、仕事を辞め、廃業し、コロナ禍で自室にこもってぼんやりテレビを見る毎日を過ごしていました。
「コロナ禍が収まったら大好きな駅弁の旅に出かけてみたらどうかしら?」
「自室が寒いのならエアコン付けましょうよ」
私がそう持ち掛けても「自分はいいよ」と答える夫。
「少しでもお前にお金を残したいんだ」と言う夫と、「誰かを犠牲にしたお金なんか欲しくない!」という私とで、何度も言い争いになったものです。
↓ イチバン元気でイチバン太っていた(笑)頃の夫
言葉を残す
大金ではないけれど、父と夫が遺してくれたお金のおかげで私は暮らせています。
お金を残してくれた二人にとても感謝していますが、お金以上に「残してくれて本当にありがたい」と私が思うものがあります。
それは…
二人が残してくれた言葉。
仕事であれ、プライベートであれ、生きていれば壁にぶち当たります。経営者としてどちらの道を選ぶのか、悩む機会も少なくありません。
悩むとき、悲しいとき、不安なとき、落ち込むとき、私を救ってくれたのは、故人が残してくれた言葉でした。
たとえモノやお金があったとしても、心が折れてしまったら使うことも出来ません。
「色々あるけれど、気持ちを切り替えて歩き出そう!」
二人が残してくれた言葉に肩をたたかれたり背中を押されながら、大きな山や小さな山を乗り越える。今までもそうしてきたし、この先も二人の言葉を胸に残りの人生時間を使い切りたいです。
↓ 父がくれたこの言葉には何度も救われました
だから私も言葉を残せたらいいなと思っています。
でも、言葉は残そうと思って残るものではなく、結果として言葉が誰かの心に残るもの。
私が「残せたらいいな」と思っても、その言葉が相手の心に残るかどうかは分かりません。
残るかどうかは分からないけれど…
・私が今まで経験したこと
・その時に感じたこと
・感じたものを元に行動したこと
それを話したり文字にする。
その言葉が誰かの肩を優しくポンポンとたたいたり、背中を押すことになったら、こんなに嬉しいことはありません。
こうしてブログに言葉を綴る理由の多くもそこなんだなぁと、書きながら気づきました(笑)
↓ 釧路への想い・アシストへの想いを沢山語ってくれました
生きてきた時間より、これから生きる時間の方が間違いなく短い64歳。
私が何を残せるか、何が残るかは予想出来ないけれど、自分が先人にもらった目に見えない何かを、次の世代の人に渡したい。
今そんなことを考えています。
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